戦後80年 日本・フィリピン合同慰霊祭

敗戦から80年目の2025年4月に日比のフィリピン戦従軍兵の遺族会による国際合同慰霊祭を行いました。4月19日、20日の2日間、場所はバギオ市とアトック桜公園、ともにフィリピン、ベンゲット州です。日本側の遺族会は蒲郡の三か根山にある比島観音奉賛会です。フィリピン側の遺族会は米比軍USAFIP NL、バギオ・ベンゲット支部の方々で、若い方も多くいる団体です。


報告書全文は以下のリンクで読むことができます。パスワードは "salubong" です。

以下は報告書からの抜粋です。

序文

ご遺族たちによる日比合同慰霊祭

1945年8月、日本に2発の原子爆弾が投下され、天皇陛下はついに連合軍への無条件降伏に同意しました。当時、大日本帝国は天皇神聖の国家でした。帝国臣民は帝国の行く末、つまりは天皇陛下の存続を憂慮しました。アメリカ合衆国軍大将ダグラス・マッカーサーは思案の末に、天皇を実権を持たない国民の象徴として存続させ、国民はマッカーサーに大いに感謝しました。大日本帝国憲法の主権は天皇から国民主権という馴染みのないあり方に変わり、新しい日本国憲法が敢行されたのです。しかし国民は、国民主権という聞きなれない言葉の意味が分からず、民主主義とはどういうものかが分からないまま、荒廃した日本の戦後が始まったのでした。

そして大日本帝国の敗戦から5年後に朝鮮戦争が勃発。アメリカは日本を共産主義の防波堤にするために、大日本帝国時代の財閥や政治家、その配下の活動家たちを戦犯から蘇生させてしまいました。結局新生日本はアメリカの兵站拠点になり、日本経済はまさかの急成長を遂げます。まんまと燐家の戦で私腹を肥やした、これを朝鮮特需と言われました。

日本人は子供を沢山産み、何も考えずに懸命に働きます。

その間の1955年から1973年までを、日本の高度経済成長と言われました。国民は、日本が始めた戦争、2000万人以上が亡くなったアジア太平洋戦争を振り返る暇もなく、ひたすら生活向上に邁進してきました。そして今、戦争体験者の多くが他界し、日本がやってしまった戦争の実相を何も知らない高齢者と、まったく興味のない若者が、成長しなくなった日本経済を嘆いています。

残念ながら、日本とアジア諸国の間の歴史認識には、少なからず隔たりがあります。かつて日本がやらかしてしまった戦争の歴史を知ろうともしないで、他国を蔑視する日本人が増えました。このままではアジアの人々と友好関係を育むことは難しいのではないか。日本のアニメ人気ばかりに頼ってはいられません。直ぐに効く解決策は見当たりませんが、まずは日本国民が、日本がやらかしてしまった戦争の事実を知ろうとする事が大切なんじゃないでしょうか。

ある日私は、フィリピン、ベンゲット州の若者たちが力を合わせて自主制作し、日比両国の若い兵士が命懸けで戦った北ルソン戦のドキュメンタリードラマの映画「ノーウェアー、イェット、エブリウェアー」を観ました。その時、この映画を両国兵士の遺族たちが一緒に鑑賞する交流会をやったらどうだろうかと思い立ちました。こんな戦争の事実を真摯に編み込んだドキュメンタリー映画は、きっと新しい好奇心を生むだろう。関係者の理解も増幅するだろうと思いました。戦っている両国の兵士たちは、ともかく与えられた命令に従って、無理やり相手に牙をむいて戦っているだけでした。

日本兵の遺族は、戦った相手が米兵ではなくフィリピン兵だった事を知り、フィリピン兵が愛する家族や故郷のために懸命に戦っていた事を知りました。フィリピン兵の遺族は、故郷から遠く離れた異国の地で、食料も弾薬の補給もないまま、みじめな持久戦を戦わなければならなかった若い日本兵を知ったのでした。合同慰霊祭を通して、互いの誤解や聞き間違いを少しずつ修正し、戦争の真実を学ぶことができれば、必ずお互いが理解し合えると私は信じます。

2025年 11月 今泉光司

謝辞

第一部司会 フィリピン大学バギオ校教授  ジミー・フォン

皆様おはようございます!ようこそ対日戦争従軍兵士のメモリアルパークにお越しいただきました。これから日本とフィリピンのご遺族たちと共に第1回合同慰霊祭を挙行いたします。この合同慰霊祭は、第二次世界大戦終結80周年を記念するものです。2025年は、第二次世界大戦終結80周年という節目の年です。太平洋戦争中は多くの兵士や民間人が亡くなった悲惨な時代でした。約52万人の日本人、約1万5千人のアメリカ兵が亡くなり、終戦間際その多くがこの北ルソン山岳地帯で亡くなりました。そしてフィリピン人は日本人の倍、約111万人が亡くなっています。フィリピンの島々は日米戦の戦場でした。おびただしい数の人々が亡くなりましたが、私たちは死んだ人々の物語を知りません。ですから、今日私たちは彼らを偲び、私たちの歴史の不幸な出来事の物語を語り継いでいきたいと思います。

本日のこの第 1回合同慰霊祭には、バギオ市のベンジャミン・マガロン市長も参加しています。大日本帝国陸軍の子孫と関係者には、会長の亀井亘氏、玉田充氏、鈴木正男氏、山田孝幸氏、田代昭雄氏、大崎正治氏、中村永大氏、倉津幸代氏がいます。また、フィリピン米軍北ルソン(USAFIP NL)バギオ・ベンゲット支部会長のテレサ・ポマール女史、ありがとうございます。またベンゲット州カパンガン出身の日系人フロール・シゲトミ・カルシさんにもようこそおいでくださいました。またイフガオ州チノック、ワンワン村の村長ボニファシオ・デュマノプさん。そして大変興味深い話があります。長年イフガオ州のワンワン村を支援してきた日本の遺族会の亀井会長を、村の正式な養子として迎え入れました。北ルソン日本人会会長の佐々木祐二氏にも感謝申し上げます。フィリピン国軍の勇敢勲章受賞者、アリエル・ケルビン氏もありがとうございます。

平和記念式典テーマソングを歌う

ジミー・フォン:

私たちはこれまでも、慰霊祭の式典でこのテーマ曲を歌ってきました。日本人ご遺族の皆さん、そして今日ここにいらっしゃる皆さんと一緒に歌うのは今回が初めてです。


[会場にOpen Handsの録音が響く]

オープンハンズ 「両手を開いて」

作詞作曲:ジョーイ・アヤラ

   ここに私の妹と弟がいます

   今が私たちに残された唯一の時間です

   私たちは開かれた手で作られた庭にいる

   平和こそが花のように集まる唯一の理由

   平和こそが私たちが立ち上がるために必要なすべてである

   私たちは両手を広げて作った庭のようです

   コーラス:

      平和はここにあり、平和だ、私たちは知っている

      まるで庭のようです

      私たちが蒔くもの

      両手を広げて

      そして心を開く、そして心を開く

   夢やビジョンを共有することで私たちは強くなり、

   知っていることを共有することでより豊かになります

   自分たちが作ったものを心を込めて大切にします

   平和とは、苦しみの中でも愛することです。

   平和とは、蒔いた種を刈り取ることです

   平和とは、両手を広げて生きることです

   (コーラス繰り返し)

追悼演説 より

USAFIP NL 第16歩兵連隊の息子娘の会会長 テレサ・ポマール夫人

おはようございます、皆さん。ここにいる日本軍のご遺族たち、そして私たちとともに世界平和を祝っている皆さんおはようございます。今、日本軍兵士の子孫たちが、私たち米比軍北ルソン、従軍兵士の子孫と共にいます。もう70歳をとうに超えた方々ですが、私は日本軍戦死者の遺族の方々に会えて大変光栄です。そして今日、多くの米比軍北ルソン従軍兵士の遺族にも会えて大変うれしい。こちらも60歳以上が増えました。私自身も70歳を超えています。今日、米比軍の遺族会の皆さんもここに来てくれたことを大変うれしく思います。あなた達の祖先が戦った、大日本帝国軍の子孫が、今日ここに来ることを知っていたからです。

私たち米比軍北ルソン兵の遺族たちは、日本の皆さんがここに来てくださることを大変嬉しく、光栄に思っています。皆さんが会いに来てくれたことは、より一層暖かい、友情の気持ちを感じます。私たち日本人とフィリピン人の戦没者遺族、息子や娘たちが、こうして一緒にいられるこのような機会を得られるとは、私は思ってもいませんでした。

第二次世界大戦について多くの話を聞きました。私たちは今でもこの民主主義と自由を享受して、幸せに暮らしています。また、私たちの親戚、友人、同胞の中にも日本で働いている人がいて、とても幸せを感じています。その中には、戦死者の息子や娘、あるいは退役軍人の子孫もおり、皆ここ北ルソンに住んでいます。私はここで会っていて、そういう人を何人も知っています。彼らの中には、日本人に帰化して日本に行った人もいて、これも私たちは光栄に思い、幸せを感じています。

戦争中に一部の日本兵は市民に対して誠意をもって接していてくれたことを謙虚に認めたい。ですから、私たちは戦争中の日本兵のすべて悪かったとは言えません。良いことも悪いこともあった。第二次世界大戦中ですから。もしそれが日本人とフィリピンの間だけの問題だったら、私たちはあまり幸せではないと思います。しかし今は、私たちが隣人であり、良き友人です。日本とフィリピンの両方で、自由と平和が秩序あるなかで、私たちは暮らしている。それを示すこと、私たちの人生の一部になっています。

亀井会長、バギオ市のマガロン市長、そして数少ない第二次世界大戦退役軍人の一人であるエルネスト・ルイス氏、そして同じく日本人の娘であるもう一人のお母さん、日系人のフローラさん。そしてもちろん、皆様に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。神のご加護がありますように。


追悼演説 より

比島観音奉賛会(フィリピン戦没者遺族会)会長 亀井亘

皆様、こんにちは。フィリピンの戦争で亡くなった全ての方々を追悼いたします。フィリピンにはルソン島だけでなく、レイテ島、セブ島、ミンダナオ島など多くの島があります。それぞれの島で戦争で亡くなった方々を追悼するとともに、戦争で亡くなったフィリピン兵やアメリカ兵にも敬意を表しています。

毎年4月には、日本全国から遺族が集まり、慰霊祭が行われます。皆あの戦争への深い反省と真摯な思いを込めて、慰霊祭を執り行っています。戦争の厳しさ、苦しみ、悲しみを決して忘れないよう、私は死ぬまでこの思いを伝え続けていきたいと思います。ありがとうございました。

追悼演説 より

バギオ市長  ベンジャミン・マガロン

フィリピン人と日本人の第二次世界大戦退役軍人の遺族の方々、今日、私たちは戦争の原因を記憶するためだけでなく、戦争の勝利によって生き、そして命を落とした人々の勇気、犠牲、そして人間性を称えるために集まりました。第二次世界大戦終結から80年が経ちましたが、戦争の参加者は今も私たちの共通の歴史を形作り続け、その教訓は今日に至るまで意義深いものです。これは神聖な機会であり、フィリピン兵、日本兵、そしてアメリカ兵を偲ぶ追悼の瞬間であると同時に、和解と結束の瞬間でもあります。癒しの時です。かつて紛争によって分断されていた同じ世代が、平和と歴史、そしてこのような恐怖が二度と繰り返されない世界を築こうという強い願いによって今、一つにまとまっていることを知り、私たちは謙虚な気持ちになります。ですから、戦争の混乱に巻き込まれながらも勇敢に戦ったフィリピン兵、日本兵、そしてアメリカ兵に厳粛な敬意を表し、彼らの人間性を認めたいと思います。この記念碑を過去を振り返るだけでなく、平和を維持し、正義を守り、両国民間の理解を育むための呼びかけとしましょう。あの時代に流されたすべての涙に、私たちは、希望と思いやりを与えてくれるかもしれません。私たち皆が、腐敗と腐敗した政治指導者の貪欲から生じる現代の不正と戦うための道具となりますように。誠実に奉仕したいという願いと、清く健全な良心を持った指導者を任命して、不幸な同胞の間での搾取を終わらせましょう。

私たちが記憶を称える退役軍人とその家族に、私たちは物語を伝え続けます。

映画鑑賞

ジミー・フォン:

ここで、本日の式典を企画するきっかけとなった映画に敬意を表したいと思います。これは10年以上前に地元の若者たちによって自主制作されたドキュメンタリー映画「Nowhere Yet Everywhere」という映画です。この慰霊祭の発案者、今泉光司氏はこの映画を見て、この合同慰霊祭を企画されました。また、今泉氏はこの街で映画「アボン:小さな家」という劇映画を制作し、市内の住民数名が出演し、世界中の映画祭で上映されました。

今泉監督は、『Nowhere Yet Everywhere』の監督、デイブ・モンテス氏に感謝状を贈呈します。この映画『Nowhere Yet Everywhere』の制作チームの皆様に感謝の意を表したいと思います。私たちの傍らには、本日の写真家兼ドキュメンタリー担当のレイネルとグラディスがいます。彼らはこのドキュメンタリー映画の制作チームの一員です。今日午後、キャンプ・アレンでこの映画を鑑賞します。

映画について

「ノーウェアー、イェット、エブリウェアー、第66歩兵隊の知られざる物語」は、地元の歴史上最も痛ましくも重大な出来事の1つである、北ルソン島の人々が経験した第二次世界大戦の物語を伝える2時間のビデオドキュメンタリー映画です。

この映画は、記録に残されていない先住民のゲリラ運動への参加、特にベンゲット州で組織されたイゴロト先住民の若者を主体とする第66歩兵連隊への活動を紹介するものです。フィリピンにおける日本軍占領という極めて重要な時期における、彼らの主要な任務と活動に焦点を当てています。


平和交流会

司会:クリスティーナ・S・アバン(NGOイヤマン創設者代表)

これからは、(今泉)こうじさんが「平和交流」と呼んでいるものを続けます。フィリピン側と日本側が交互に登場します。皆さんの前に出て、それぞれの先祖について、どこでどのように戦ったか、両親や祖父母から聞いた話などを共有してください。何でも構いません。ぜひ、あなたの先祖について話してください。歌でも、踊りでも、面白い話でも、あなたの気持ちを表現できるものなら何でも構いません。どんどん話を続けてください。まずはフィリピン側から話し、その後、日本側の話を聞きます。恐れる必要はありません。お互いに分かち合いましょう。

平和交流会より


エミリー・ディゾン:USAFIP-NL バギオ支部の公設秘

昔の、たぶん1990年代の退役軍人について少しお話ししたいと思います。当時、私は髪の毛がとても薄く、男の子のような見た目で、Tシャツと短パンでした。4歳か5歳くらいの頃、3人の退役軍人が私が女の子か男の子か賭けをしていました。一人の退役軍人が「ああ、女の子だ」と言いましたが、もう一人の退役軍人は「いや、男の子だ」と言いました。すると、そのうちの一人が「よし、確かめてみよう」と言いました。すると突然、その退役軍人が私の短パンを引き下ろして「女の子だ!膣だ!」と叫びました。今日皆さんにご披露したいお話は、この話です。結局、もう一人の退役軍人が勝ちました。私を男の子だと思ったもう一人の退役軍人は、あそこのリサイクルショップでたくさんの短パンを買いました。つまり、もう一人の退役軍人が賭けに勝ったのですが、彼に報酬が支払われたかどうかは分かりません。私が知っているのはそれだけです。


亀井亘:フィリピン戦没者慰霊協会会長

私は現在の韓国で生まれました。父は旅館を経営し、母は父と一緒に働いていました。ですから、韓国も故郷だと思っています。日本にも多くの友人がいますが、韓国にもたくさん友人がいます。父はボントック(フィリピン、マウンテン州)での戦闘で亡くなりました。私たちはボントックとワンワン(フィリピン、イフガオ州ティノックの村)でボランティア活動をしました。ですから、フィリピンには160回ほど来ました。フィリピンにも多くの友人がいます。フィリピンはすでに私の故郷でもあります。本当にありがとうございます。

亀井さんは「ここに幸あり」を歌いました。

   君を頼りに 私は生きる

   ここに幸あり 青い空


フェルディナンド・ピナンガット医師:USAFIP-NL バギオ支部理事会

父が第二次世界大戦中の日本軍の功績を語っていた頃、私はまだよちよち歩きの幼児でした。当時は小さかったので、その話の重要性も理解していなかったので、あまり興味がありませんでした。

覚えている面白い話は、以前、戦時中は「日本軍が来るぞ!来たぞ!」と叫んで、皆、特に女の子たちは山へ逃げたということです。しかし今では、日本人がフィリピンに来ると「日本人が来たぞ!」と叫んで、女の子たちは日本人の男に向かって走っていくそうです。日本人はとても裕福だからです。冗談はさておき、私が本当に覚えているのは、私たちの父が映画で見たように、戦争の話を聞かせてくれた場面には、ベサン峠の戦いで兵士たちが苦闘する場面がありました。映画では「人間の梯子」が作られ、(日本軍が占拠していた丘の攻略)父は自分がその梯子の一部だったと言っていました。父はそこにいたのです。父がその話をしてくれた時、私は映画を見ていないので分かりません。今になって初めて映画を見て分かりました。そして、父の言葉は真実でした。映画にその場面があったからです。

父がその話をしている時、誰かが「その時、あなたは人間の梯子のどこにいたのですか?」と尋ねたと思います。父は一番上にいたと答えました。「人間の梯子を想像できますか?梯子の一番下にいた人が、すべての重量を担わなければならないのです。」父が私に話していたことが真実だと今になって気づきました。

私が覚えているのはほんの短い話で、父は長い話をたくさん持っていて、ラ・ウニオンまで下り、ベンゲットの様々な地域で戦い、再び上っていった。彼らの努力を語り尽くしていたことを知りました。特に「人間はしご」は覚えています。本当にありがとうございました。


山田孝幸:大日本帝国軍人の子孫

父はバギオの北21キロで亡くなったと言われています。日本兵たちはなぜフィリピンに来て戦争をしなければならなかったのか理解していませんでした。天皇と上官の命令に従い、知らず知らずのうちにフィリピン人と死闘を繰り広げたのです。父は私がまだ母のお腹の中にいる間にフィリピンに送られました。日本兵たちは本当は人を殺したくなかったのだと思います。しかし、戦争ですから、命令が下れば敵として殺し合わざるを得なかったのです。日本兵たちは本当に平和を望んでいたのだと思います。日本の農民が作った米作りの歌を歌います。

歌:

   お米作りはよ 辛いもんだよ

   秋の実りにゃよ 風(台風)が吹くよ

   シラス(火山灰)畑にゃよ 唐芋いけよ

   風が吹いたとてさ 土の中よ

   シラス畑のよ 百姓の願いは

   二度と戦せぬ 日本の国よ

父がフィリピン人と戦っていたとは知りませんでした。アメリカ兵と戦っていたとばかり思っていたのです。映画を見て、フィリピン人がどのように戦っていたのか、新たな発見がありました。日本とフィリピンの関係をより深く理解することができました。日本兵がフィリピン人に多大な迷惑をかけていたことも知りました。映画から学ぶことができました。本当にありがとうございました。


マリベル・カリス:フィリピン戦争退役軍人の子孫

父は私が6歳の時に亡くなりました。そのため、父から直接話を聞くことはできませんでしたが、兄や姉から父に関するいくつかの話を聞きました。父はサバランのカモグ地区で多くの日本人を殺しました。そこでは多くの戦闘が繰り広げられていました。戦後、父は日本の歌を覚え、叔父も父からそれを習いました。

ベンゲットのイバロイ族の間で最もよく知られている話は、かつてイバロイの退役軍人が日本軍に捕らえられたというものです。彼は日本軍に殺されるか処刑されるかの瀬戸際にありました。しかし、彼はまず日本兵に歌を歌わせてほしいと頼みました。そして彼は歌を歌い、その内容はこうです。

   「カラホ・カイト、タテロ・イラ」

   (イバロイ語:同志諸君、来い、彼らは3人だけだ)

彼はそれを繰り返します。

つまり、彼は実際にその地域に潜伏していた仲間のイバロイ兵たちに攻撃を呼びかけていたのです。その時日本兵は3人しかいなかったのです。それで、歌を聞いたイバロイ兵たちはやって来て、日本人を襲撃し、殺害し、仲間を救ったのです。冗談だと思っていましたが、2年前にサブランで行われた戦没者慰霊碑の式典で、退役軍人の一人がベッサン峠で実際に起こったと証言しました。ありがとうございます。


田代昭雄さん:日本兵の子孫

私の父は北朝鮮という場所でロシア国防軍に勤務していました。しかし、日本の家で家計を支える人が亡くなりました。父は除隊となり、帰国して母と結婚し、私が生まれました。私が生後2ヶ月の時、父は北朝鮮の部隊に送り返されました。父はもう戦争には行きたくないと言っていました。もう戦いたくない。しかし軍に抵抗できず、戦場に呼び戻されました。そして1944年、父はフィリピンに配属され、サンフェルナンドのリンガエンに上陸しました。父はバギオに行き、皆さんの父親であるゲリラと戦いました。バギオやアバタンに駐屯し、マンカヤンの三井鉱山を守備していました。その後、ベサン峠が陥落し、父の部隊はブギアスに撤退しました。父はそこで戦死しました。ブギアスで父は大尉として攻撃を指揮しました。弾薬がなかったので、戦わずに帰還しました。それで、父は命令に背いたために殺されたのです。生き残った部下からその話を聞きました。父は責任を負っていたから殺されたのだと思います。

私は40年間、毎年慰霊祭に通っています。日本は80年間戦争をしていません。80年間、これからもずっと続けていきたい。これからも通い続けたいと思っています。ありがとうございます。


エリザベス・デュアガン:フィリピン戦争退役軍人の子孫

これは物語ではありませんが、今日見た映画にとても感動しました。映画を観ている間ずっと、祖父が傷ついた兵士で、とても恋しいので、感情が溢れていました。祖父が亡くなった時、私は小学6年生だったと思います。第二次世界大戦の話はほとんど覚えていません。しかし、彼はいつも戦争の話をしてくれました。私が少し前に見た物語は、ラ・トリニダードで語られていたので、彼は第3大隊にいたと思います。以前、彼はラ・トリニダードに住んでいたという話をしていました。だから私たちはいつも、彼がなぜラ・トリニダードを去り、なぜボコドの山岳地帯に住むことを選んだのかと冗談を言います。ボコドは貧しいです。もし彼がラ・トリニダードに残っていたら、裕福だったかもしれません。ラ・トリニダードは豊かな町ですから。しかし、彼は日本兵から逃げるためにラ・トリニダードを去ったのです。映画を見ながら、彼らの勇敢さを目の当たりにしました。彼らはひどい飢えに苦しみながらも、戦いに勝つために努力しました。私はあそこにいる祖父のために祈っています。とても寂しいですし、彼の勇気に心から感心しています。だからこそ私はUSAFIP NLを代表してここに立っています。本当にありがとうございます。


中村永大:日本兵の子孫

こんにちは、みんな。

父は1945年6月22日にマンカヤンで亡くなりました。私は1944年10月に生まれました。それから2ヶ月も経たないうちに、父は北朝鮮からルソン島へ移送されました。父は私が生まれてから50日後に戦場へ行ったので、父との楽しい思い出は全くなく、何も話すことができませんので失礼します。


アベロ・ピナンガット:フィリピン戦争退役軍人の子孫

父はベサン峠で戦った兵士で、そこで片目を失いました。戦後、私たち皆と同じように、父は大きな夢を抱いていました。父は学業を続け、教育学の学士号を取得しました。父は友好的な性格だったので、戦後は日本兵と多くの友人になりました。私たちの土地の周りには日本の宝物がたくさん隠されていたのだと思います。だからこそ、多くの日本人が(戦死した日本兵の)骨を探すためではなく、宝物を探すために帰ってくるのです。父は生来友好的な性格でしたが、だからこそ日本人にもとても親切でした。父は日本人が宝の地図をくれることを期待していましたが、私たちが裕福ではないので、もちろん地図はありませんでした。

日本の皆さんが私たちの国を助けてくださり、私たちはずっと友達でした。こうしてまた日本人が来て私たちと友達になってくださり、本当に嬉しく思います。神様の祝福がありますように。


玉田充:日本兵の子孫

父がマニラ地域にいたことだけは分かっていましたが、あとは分からなかった。父の戦友が1980年頃に調べてくれて、その時初めて父がどこで戦死したのかを知りました。父はラ・トリニダードで負傷しました。父がブギアスに送られたことを知ったのは1981年になってからでした。それ以来、何度も弔問に訪れています。ありがとうございます。そして、お悔やみ申し上げます。


閉会の辞

イフガオ州ティノック町ワンワン村 村長  ボニファシオ・デュマノップ

こんにちは。本日ご列席の皆様、ご来賓の皆様、日本人の皆様、フィリピンの皆様、そして国際社会の皆様に心よりご挨拶申し上げます。私はボニファシオ・ドゥマノップです。退役軍人の誇り高き息子であり、現在はイフガオ州ティノック町に位置する、平和で慎ましやかなワンワン村の村長を務めています。この荘厳で意義深い式典に、コミュニティを代表して皆様の前に立つことを大変光栄に思います。

第二次世界大戦終結80周年を迎え、私たちは戦争で失われた数えきれない命を追悼し、哀悼の意を表します。80年が経ちましたが、戦争の記憶は今も私たちの中に生き続け、その苦しみを目の当たりにした先人たちの思いが、今も私たちの心に響き続けています。

実はワンワン村は、終戦前の数か月間、大日本帝国軍の総司令官山下奉文大将が最後の数か月間潜伏していた村でした。1950年代、私たちの村は深い恐怖の時代を経験しました。見知らぬ大男、見知らぬ人が私たちの村に入り込んできたのです。

私たちの静かなコミュニティで、彼らは何かを探しをしていたと考えられており、おそらく戦利品の財宝を探していたのでしょう。彼らの存在は、戦争の傷からまだ立ち直れず、外部の人間に慣れていなかった村の人々を恐怖に陥れました。これらの記憶は私たちの心に深く刻まれ、紛争が残した長い影を思い起こさせます。

しかし、時が進むにつれ、私たちも歩みを進めます。平和の手が山奥の最も僻地にまで届きました。戦争によって引き裂かれた関係が、親切、謙虚さ、そして理解の行為によって修復される様子を私たちは目の当たりにしました。今日、私たちは、開発プロジェクト、災害救援、教育プログラム、そして地域に根ざした取り組みを通して、フィリピンの復興を支援する日本の真摯な努力を高く評価します。日本は寛大な隣国であるだけでなく、平和における真の友であることを証明してきました。そして、私たちのコミュニティにおいても、この友情は、亀井亘氏という素晴らしい人物を通して実現しました。亀井氏は長年にわたり、ワンワン村の献身的な支援者でありました。人々の生活の中に支援する事柄を探し出し、その救済をもたらすために、たゆまぬ努力を続けられました。

亀井さんが初めてワンワンを訪ねてきた時、私たちは本当に恥ずかしかったのを今でも覚えています。どう彼に近づき、どう接したらいいのか全く分かりませんでした。でも幸運なことに、彼の優しさに触れることができました。そして、最終的には、ただの友達ではなく、親しい友人になったのです。

私たちの深い感謝の気持ちを表すため、2023年12月26日、わが村の人々は一丸となり、ついに亀井亘氏を私たちのコミュニティの正式な息子として迎え入れました。これは、会議を招集し、それが正しかったのか、良くなかったのか、亀井さんだけでなく、日本の友人たちにも、コミュニティを支援してくれる日本の友人たちへの感謝の気持ちを示すために何をすべきかを議論することで実現しました。そしてその日、コミュニティの大多数の人々が亀井亘氏をワンワン村の息子として迎え入れることに決定し、亀井氏の名前を「リドゥン」と名付けました。私たちは亀井氏を単なる訪問者や協力者としてではなく、家族の一員として迎え入れました。彼の献身と優しさは、今日の日本が象徴するもの、すなわち平和、思いやり、そして他者の向上を支援する、献身を象徴しています。

戦争という悲劇的な原因を思い起こすとともに、この式典を、私たちがどれほど遠くまで来たかを、祝う機会としましょう。恐怖から友情へ、沈黙から連帯へ、痛みからパートナーシップへ。日本の友人の皆様、ありがとうございます。平和と和解への揺るぎないご尽力に感謝いたします。ワンワン村の人々は、癒しは可能であり最も思いがけない場所で花開く、ということの生きた証しです。この日が、過去を決して忘れてはならないと同時に、より明るい未来のために努力をやめてはならないことを、私たちに思い出させてくれます。